キーワード正常化運動

で、評議とか始動したら考えようと思っていたこと。現状ではまだ、本当にやってみるかわからないところ。単純に案として考えたこと。
はてなのキーワードは、鬱陶しいという部分もある、その点において、対処法として、普通名詞を切っていただければ快適にお使いいただける、というやり方も出来る。色々な使い方が出来る、普通名詞を切って、固有名詞も自分の興味のある物だけにすれば、極めて快適に使えると。もちろんそういう使い方もあっていい。また人によっては、せっかくはてなの機能なんだから、全部把握できる状態で、勝手に出来るリンクを愉しむという使い方も、誤リンクになることを愉しむつき合い方も出来る。
自分の場合も、ありのままのはてなの状態でリンクの情況を愉しんでいる。それでも、しかしながら気に掛かるキーワードが無いわけではない。率直に言えば、気に掛かる物を整理して、正常化してすっきりしたいと思うときがある。
どう言った物が気に掛かるのか、整理して、把握してみる。

  1. 普遍的な言葉で、自然に日記を書いている上で、頻繁に使われる言葉(ほとんど使われないような言葉で無価値に思えるキーワードがあったとして、だれがじゃまに思うだろう)
  2. 頻繁に使われる上に、それが、言葉を今さら説明する必要がない平易な物、また実際にキーワードの内容が辞書的な説明や、空欄である物
  3. 説明の要らない物であれ、空欄であれ、そのキーワードが補足用として機能していたり有益であれば、問題がないが、常識的に補足される事で益がないと思われる物(具体的には日本とか、わざわざ説明を必要とするものではないし、日本と書いた日記を補足しても益はあるとは思えない)
  4. 上記の条件を満たしながらも、関連語として、○○を含むキーワードに補足されたキーワードがリストとして有効にはたらく物については、一概には言えない。(具体的には、動物とか植物とか)

と言ったような感じ。
ただ第四の問題に関しては、代案がある、動物は、リスト::動物とすることで対策済み、現在動物は無くてもいい状態にあると思えるし、植物は :植物として捕らえられているので、存在していなくてもいい。こうしたやり方で、普遍的で、頻繁に登場し、邪魔者扱いされているキーワードは、付加記号を加えるなどして対処してから削除と言う形に持っていけば、成立できると思われる。
そう言ったことで、あまりに不要なキーワードは整理して正常化して快適に使えないかと言う話、これは以前から、むよたんとか、適当にピックアップし続けていたことなのだけれど。
ただやっぱり、そう簡単なことでもない、人の感覚はまちまちだし、自分で具体的に体験したことは、不要だと感じていたことが、価値観によって、面白味を引き出せると言うことがあり得ると言うことを通勤というキーワードによって理解した。繰り返し書くと、通勤になんの有益性もないと感じていたけれど、通勤に関する記述が抽出できるという事に多少なりとも面白味があったと言うこと。
それを踏まえて考えると、無用だと感じるのは、日本(日本のキーワードの内容は、消すには忍びない印象がするが、都道府県の内容がほとんどかぶっているのて問題はないように思う)、地球、廊下(以前議論したけれど、本当のところは、大多数のユーザーは廊下というキーワードの存在を愉しんでいないと思う)スタイル、イメージ、と実のところ、そんなに多くはない。
と、ここまでだと今までと同じ事の繰りごとになんだけれど、今回改めて書こうと思ったのはその先に思ったことについての事があったから。
と言うのも、なにかと削除行為をしている者に対してや、その行為にたいして、悪い印象の声の方が多いと見える。削除屋とか、言葉狩りとか、そうした言葉を重ねて、あたかも、作られたキーワードは全てあってしかるべき、そうそうむやみに削りなさるな、という風潮があるように見えるのだけれど、それははたしてほんとうなのだろうか?と言う話。
出来事の構造上、否定的意見が、聞こえるのは当然だ。気に入らなかったから声を上げる、そういう事柄は聞こえやすい。
その逆は聞こえにくい、たとえばの話、こういう削除が不快だという声がある。
またある時は、こういう登録が、不快だという声は聞こえる時がある。
こういう登録が不快だと言うことは、多数の人が、どうだろうと首を傾げている、誰かが思いきって削除したと、それに対して、消えてよかった。消してくれてよかった、と言う声は、聞かれにくい。多数の人が心の中で思っているだろうと想像できる。
逆にこんなのを削除したという声は聞こえる場合がある。少数の声なのにそういう声の方が通りやすかったりする。水面下では無言のよく削除したという声がありながら、少数の少しずれた感覚の、削除するなの声の方がまかり通る場合もあるんじゃないかと思ったりする。
上に挙げたような条件の言葉の削除に対して、はたして、よくやったという声と、削除しやがってつまらないことを、と思う声と、本当のところ、客観的にどちらの方が多いのだろうと思う。
昔自分が削除にした物には、月曜日から各曜日のキーワードが登録されたけれど、鬱陶しくて削除したけれど、どう受け取られていたのだろう、また掃除しているとか思われたのか、助かったと思われたのか。
いつかもう一度、整理しようと思ったとき、そんなことを思った。
具体的に、削除自体のことは、いいかげんにやってはいけないと思っている。昨日?一昨日の、角松フリークの部屋に関しては、自分なりに考えた結果の、無記名削除(移動)だったのだけれど、初心者に対して、冷淡すぎたと言われれば申し訳なかったかなあと、情緒的によくなかったのかと反省するけれど、どんな言葉を選んでも、削除は削除、否定は否定で、言葉を掛けても傷つくのじゃないかと思って、ただ動かした。……釈明はやめておきます。
これは個人批判っぼくなってしまうのだけれど、小林の削除コメントとか、見ると、『登録意図がよく分からないのですが』だけでは削除すると言うことに対してのネゴシエーションが足りないのじゃないかなと感じる。これで第三者を説得できるとは思えないし、削除するよりあっていいという既成事実を強化するように思う。政治的視点も重要なのかも知れないけれど交渉術も大事なのじゃないかと。(言い過ぎた感があるんですけれど、削除行為のネガティブケースの代表になっていて、まっとうな整理行為とか動きにくくなるので、考えて行動して欲しいなあという思いもあるので、思いきって書きました)
ただ、本当のところ、仕事とかお金とか、あまり歓迎されていないとも思えるのだけれど、と言ってじゃまにされてはいないと思われるキーワードもあるし、大らかにあっていいと思うのだけれど、そうじゃないのもある。
そして、益と不利益のことを考えると、日本とか、まったく益が出ていない、と言って不利益も出していないとも思えるけれど、ほんの少し、ユーザーが、自動で出来るリンクに対して、要らないなって感じているという部分が不利益を発生させていると思うのだけれど、それにこだわるのは、気にしすぎなのだろうか?と思ったのでした。