GUNSLINGER GIRL

「流星」いよいよやってきた最終回、果してGUNSLINGER GIRLと言う物語は、どんな岸部に観客を運んでいくのだろう。現実的な悲劇?偽善的な救済?
とそれだけが最終回の期待だったけれど……。
アンジェのその後、それぞれがお見舞いをしたり、マルコーさんは人知れず保健所に行きアンジェが昔飼っていた犬に似ている野良犬を探している。
戻ってくると、エッタに、一緒にいてあげてくださいと頼む。
流星群が近づき、エッタの楽しみはジョゼさんに連れられて流星を見ることだったけれど、用事で行かれなくなってしまう。
悲しむエッタ、トリエラがなんとかしてあげると約束し、ヒルシャーに引率を頼む、今日は翻訳で忙しいと断ると自分も手伝うからと言う。
そして、流星を見る義体少女達。
一人病室で流星を見るアンジェの枕元にマルコーが来る。幸せにみたされるアンジェ、パスタの王子様の話をせがむ。ここでこれを持ってくるか。
流星を見ながら、第九を聴く、エッタ達も草原で第九を唄う。
流星を見ながらそっと目を閉じるアンジェリカ。(死んだ?それは描かれない。ここで死んだ方が幸せかも)
という話でした。
えー。
まあそんなところだろうね、結論は出せないし、出そうとしてないんじゃないのかな。悲劇になってもしょうがないし、偽善的に救済される物語になってもダメだし。
自分はこの物語は、エッタとマルコーやり取り
「機械の身体を与えられ銃を持たされ、短い一生を生きることをなんとも思わないのか」
「もしマルコーさんがわたしたちを可哀相だとか申し訳ないとか思っているのならそれは間違いです。これは条件付けかも知れません、でもわたしいいんです。それでもいいんです」
かなと思う。
このところの現代的な物語の構造、自分の生きている意味の喪失、虚無感、シンデシマッテモいいんだという気持、そうした死生観に対するひとつの解答なんじゃないのかな。
義体少女の情況というのは極端にした現代人の気持なんじゃないのかな。生まれてしまった自分たち、激しい虚しさを感じるとしても生きていくしかない。たとえ幻としても、現代人の現代社会が生み出した虚構の幸せや価値観、結婚、家族、お金、名誉、娯楽など、そうしたものは作り出された、虚構の幸福だとしても、それが社会の作った条件付けならば、もっともっと強化して、この今の虚しさに狂いそうな自分たちを、偽りだと感じさせないぐらいに、激しく幸福に脳髄の奥底まで酔わせて虚しさから救って欲しい。孤独から遠ざけて欲しい。わたしは一人だと気づかせないで欲しい。
そういう事なんじゃないのかな?とか思った。
流星と言うタイトルが指し示す通り、義体少女達の一生は流星であると共に観客のテレビの前の糞袋な我々も一瞬の煌めきでしかないのだ「みんな星になってしまえー!」
とりあえずラストに困ったらクラッシックを流せって事ですナ!