雑談

今週は、いい物語をたくさん見たので漠然とそういったことで思ったことを書きます。
いい物語を書くことの要素に我は、二つの要素を特に強く感じます。
一つには、作家という書き手が、その全身全霊を理性に対して使うと言うことです。
作家はものすごく賢いんです。賢くて気が回って洞察力があって、なんか適当に、ポチポチとキーを叩いて打っているように見えて、実は、色々なこと、その話でなにを描きたいかとか、なにを伝えたいかとか、観客に対してなにを持ってして興味を引っ張って、面白いと感じさせて惹きつけていくかとか、理解して作っちゃえるんですね。それ以外にも、登場人物のこととか、すごい理性を効かせて、どういう人物がこの物語に効果的かとか、どういう物語にするべきかとか、そこにどんな出来事を絡めていくかとか、あらゆることが、すごくキレイに整然とした精密で完璧な、箱庭みたいな物語を作っちゃえるんです。
そういう物語に出会うと、観客は、すごいなあ、と圧倒されるしかないんです。
その上更に賢いので、そういう風に、理屈の積み重ねで物語が作られているって悟られると、物語が嘘臭くなったり、理屈っぽくてイヤミっぽくなってあまり楽しめません。インテリぶったサブカルっぽい人には受けたりするのかも知れないけど、普通の読者や、少年マガジンみたいな、DQNな読者は逃げていきます。
本当に賢い作り手はそういう計算や賢さも見せません。なんか勢いで書いている、とか思わせるのです。
頭文字Dの人とか、あの辺の車マンガとか、族マンガとかああいうのも、ヤンキーっぽく見えて、実はすごく賢い理性でコントロールされて描かれているのです。
やっぱり物語って、作家の物語に対する、どれだけ真剣に向かい合って考えて考え抜いて作品を作っていく、と言うことに対して、脳みそが汗をかく、という部分に、観客はお金を払っていくのです。
それでも、それだけじゃないのです。
さまざまなことを真剣に考えて、理性を働かせて、ある局面で、登場人物はどう考えどう行動するだろうと決めて作り込んで書いていっても(それだけでも、常人には出来ない、気の利かせ方、洞察力を要求されますが)それだけだったら、ただ賢いと言うだけで、誰にでも描けるのです。
作家が、作家として見事で、本当にお金を払うだけの働きをしているのは、そういう慎重な理性によって怖ろしく難しいシューティングゲームをこなすように、針の先を歩くように慎重に物語を運びつつ、常に同様に、感性という物を働かせているのです。
理性というのは論理や理屈でなんとかなりますが、それとはまったく異なる、計算や理屈ではなんともならない、計算できない物に常に神経をとがらせ、美しいと言うことや、興奮すると言うことや、理性では制御できない感性、センスというもので、観客を魅了する力と言う物を備えていないと本物の表現者の資質を備えているとは言えないでしょう。
本当に、よかったと感じる作品という物は、そういう、作り手の真剣な理性と感性を使い切って作り上げた仕事によってのみ生み出されるのです。
近頃の物語は、特に、感性による部分の力に欠ける作品が多いように思います。ちゃんと書けてはいるのだけれど、心が動かないと言うような作品が多い。
逆に、技術や能力には欠けているのだけれど、感性による部分で、丁寧に熱心に書かれた物語は人の心を打つ。
昔の物語、アニメでも映画でもマンガでも、セットなのがまるわかりだったり、セル画でゴミだらけで、人間も書けていなかったり、歩くシーンもちゃんと描かれていなかったりするのに、見ていると引き込まれて、面白くて、作っている人の熱意がどんどん伝わってきて、見ていて興奮してくる、と言う作品もあります。
そう言うわけで、現在アニメ作りの現場は、なかなか忙しくて、そんなことは理想論なのだろうけれど、作り手の熱意と、感性の働かせまくって、いい物語を作ろう、観客を愉しませよう、という良心を感じる作品が多かったです。そういう作品を見続けられる限り観客としてはありがたいことだ、と思います。
作り手の誠意や理性、感性が十全にあったと感じた作品。
ボンバーマンジェッターズR.O.Dカレイドスタープリンセスチュチュエアマスターギャラクシーエンジェル(本気でふざけると言う意味で(笑))とか、まあ賛否両論あるでしょうが、自分からは、こいつら本気(本気と書いてマジと読む)だ、みたいに感じた作品でした。