水浸しピアノ

あーもうね、こういうの書かない方がいいし、書く必要ないやんと思うんだけどついつい。
しよーがないので覚悟を決めて水没 ピアノとか読んでみた。
あーんなだなるほど、三部構成なのか、途中で変なことになっちゃったけど、パターンBみたいな感じなんだ。とか構成がわかって構造を理解してくるとなんとか行けそうな。
つまりは、ダメ人間パートの青年編と、スナイパー長女と小学生がサンドイッチになってるのか、と。


まあ、青年編はありがちで一番違和感がなくて、それなりに読めるし読ませる。
なぜ戦闘少女なのかっての思い出した。
http://allabout.co.jp/computer/virtualbeauty/closeup/20040307A/
ぶっちゃけ、男性作家が15才の少年をモデルに戦わせると、自分の15才を考えると、ヘタレでそんな戦えるわけないじゃんってなっちゃうから、自分じゃ全然わかんない15才少女に戦わせちゃうみたいな。
そういやそうか、最終兵器彼女なんかも高橋しん的には、自分の高校時代を考えるとヘタレシュウジだから、シュウジを戦わせられなかったから、自分にはわからない異性としてのエイリアンな少女を兵器怪物にしちゃったとか、そういう意味で、ヘタレな自分を書いて向き合うのがイヤなんだろうな、っていう時代に、よくまあこういう、屈折した、ゴミみたいな稚拙で未熟な自分を肯定して書くなーと、スゴいねえと。
と、取り合えず青年パートは有りかなと思いつつ。


スナイパー少女のパートは、これはあくまで観念的、メタファーとしての物語だから気にするなと少佐のゴーストは囁くんだけど、隣でなぎさタソがありえない!ありえない!ありえない!ぶっちゃけありえない!とか騒いじゃって認めたくなーい!っていうか。
うんありえない、その辺の線引きってヤツはわからないんだけど、例えば、長女がなんかで(裏切りのせい?)エスパーに目覚めて、それでスキャナーズみたいな感じで家族を見張ってる。ちょっとでも逃げようとしたら頭がサイキックでボン!ちょっとでも長女の機嫌を損ねたら、目がキラーン!炸裂するイーエスピーで手の骨があらぬ方向へボキボキ!んぎゃー!
とか、情況的には同じだけど、まだそういう虚構の方が受け入れられるんだけど。イヤそれ以前に、そういう情況にはめ込まれた人間の後ろ向きな態度に受け入れられない物があるのかも知れないんだけど、なんで受け入れちゃってるのみたいな。


そして小学生パートはいわゆる人として無力な状態という当たり前の情況としてのメタファーだと思うんだけど、そしてそのために意図的に更に残酷に無力に設定されているんだろうけど、物の考え方とか思考力はちゃんとした大人って言うか、子供の皮の中に入った青年って言うか、すごく居心地が悪い。
同じ小学生をモデルに書くにしても、乙一さんなら、大人びた思考の小学生書いても、現実味あるのに、なんでこうも稚拙で嘘臭く見えるのか。


ってな感じで、5ページぐらい読むたびに大暴れしたくなる。ぎゅわわわっ!


別にね、本当に嫌いじゃないんだと思う、ほんとにやだったら、なにも思わず、黙って無かったことにするし、大塚エイジの本みたいに。
それなりにその情況に興味はあるし、その三つの話がちゃんとストーリーとして構造化してくるのかに興味も感じるし、この物語がどういう結末にたどり着くかも気にはなるんだけどいかんせん。
なんつーか、犬コロが、煮え立ての肉を出されて、食いてぇぇぇぇ!でもアッチイ!殺してぇ!大暴れしてえ!
ってとこなんじゃないかと思うんだけど。
無理して読むと魂削られるね。