蒼穹のファフナー

最終回スペシャル。
見た、良かった、素晴しかった。


展開としては、総士を助けに行く四人、島を正しくし存続していけるように島のミールと同化しに行く(消滅する、死に行く)乙姫、敵に捕らわれて一騎たちを攻撃させられる総士、の三箇所の事態を交錯して語られる。


優れていたのは乙姫の立場で、乙姫は覚悟もしていて、決意していて、判っている、それでもやっぱり土壇場では同化する(死ぬこと、消えること、居なくなること)を恐いと感じる。


生きて必ず死ぬ定めの人間にとって、繰り返し永遠に考えなければならないテーマだ。


脱線するけど、ファフナー、何度もエヴァ似とか言われるけど、そりゃしょうがない、死ぬ定めの人間にとって、生きることってなんだ、必ず死は訪れるけど死ってなんだ、ってテーマを扱えば似てくるって。それだけえばがそのことについて考えると最も近い雛形を作っちゃったって事なんだから。


そしてそれは死から逃れられない限り、永遠に人に付きまとう問題、えばが1995年代の生と死に対するアプローチだとすれば、9年後の2004年の生と死に対するアプローチで、大元は同じだけれど、それぞれの時代の感覚から微妙な差異があると。
えばとの違いは、今の更に進んだ隔絶した人間同士の距離感の中で、再び、今を生きるって事と向き合ってるんじゃなかなと感じたり。


えばの中でシンジくんは孤立しちゃいる、っていうか、孤立していることに自覚的で後ろめたさを感じてる。孤立してると言いながら、その実、ミサトさんとかアスカ、レイの間で疑似家族関係を保っている。
それに比したら、ファフナーにしても、絢爛にしても、登場人物の人間関係が希薄で、みな孤立してる、そしてナニより孤立していることに対して後ろめたさがない。
大事な友達が一人も居ないことになんとも思ってない。薄い友達はそれなりにいるけど、なんて自分は一人なんだ、とか感じてもいない。


そんな感覚の中で、生きること死ぬことを考えることは、えばの時とはまた違った印象が生じるだろうし、それは成功してるんじゃないかと感じた。


閑話休題
乙姫に関しては、やっぱ死ぬ事って割り切ってるつもりでも恐いかな、とか感じたらそれでいいかなとか思った。達観したつもりでも恐いし、死だけじゃなくて、生きていても一人でいることは恐い、死んでなくても一人でいるのは死んでいることと同じ、でもね、今そんな大切な人を持つって大変だしね、難しいナとか思ったり。


総士の方は無理矢理ながら一騎を攻撃しなければ、とか操られつつも、実はまだ騙していてフェストゥムに消耗戦の痛み、痛みと消えることの恐怖を感じさせるのを目的としていたと、頑張ってた。


四人のチームの方も同様、一人も死なない、四人は一緒、誰かが居る、自分は一人じゃない、とかそんな感じが伝わればイイナとかそんな感じに受取った。
「昔は居た、でも今は居ない」と言ったカノンが「また昔は居なかった、でも今は居る」と自分が仲間と共にいることを自覚して言ったり、良かった。


結局の所、総士は消失してしまうんだけど、乙姫は別の姿で転生するわけだけど(ってそれを極めると、結婚して子を作れって事なのかなとおもうと、うっわーな結論だけど)というか、道夫さんの子が産まれたっていうのは、島のミールが生と死を理解して、不妊をといて再び生命の誕生を許した、命の繋がりを取り戻したという希望を持って物語を終わらせた。


終盤は、D・N・ANGELの監督っぽい匂いのする幕引きで良かった。出だしは良好、初盤から中盤がどうにも印象が悪かったけど、結果は良い物語だったんじゃないかな。
久しぶりに、終わって、作り手にありがとうと言える作品だった。
テーマ的には12話とかでも出来ると思うけど、これだけの積み重ねと時間がないと登場人物への思い入れを生じないし、それだけ思い入れを感じるようにならないとこういう余韻は味わえないと思うし、そのグダグダも効果を発揮したのかなと思う。
寄り道がグダグダに感じちゃったのが残念だけど。


あとなんだかんだ、フェストゥムって敵としては扱いにくいと思った。
今の時代には一番似合ってる敵だとは思う、実体はハッキリしなくて、でも確実に自分たちを蝕んでいく、最も警戒して憎むべき敵なんじゃないか、今の人間から、生きる充実や楽しみを奪って、生きることがただ苦しいだけ痛いだけで、早く死んじゃいたい、死んだ方が楽だ、とか感じさせるようなナニかなとは思うけど、実体がなくて闘えない相手。
物語では判りやすく、具体化していたけど、現実にはそんなものは存在してなくて、今を生きる人々の中に蔓延している、思想や価値観なんだろう。


なんだかんだ面白いと感じたのは、このごろの人間は、どんどん人間味を失ってて、物語を書いても、面白味がない、人間味がない、なんて感じる事が多かったけど、ファフナーの前半の面白くなさってそう言う部分に起因していて、冲方氏の参加で俄然面白くなってきたけど、それってちゃんと人間味の伴った表現で、一世代は古くさい表現なんじゃないかと思う。


そんなわけで人間はどんどん変な方向へ進んでるんだろうなとか。


シンクロするとか、安直に人は繋がれる分かり合えると思っているところが危ないなと。
意識をシンクロしたというコックピット表現は新しかった。
そんな風に繋がれないのが人間だって。