ディスコミュニケーション

深夜に黒沢清の回路をやってたので見てた。


物語は展開的にグダグダなんだけど、内容は結局エヴァだった。
ってそうじゃないんだけど、テーマの根幹は同じみたいな。ってことはファフナーと同じとも言えるけど。


だからって、回路を見てえばえばは言わんよな、なんでファフナーはえばえば言われちゃうんかとか思ったけど、考え方によっては作為的に似せてるとも言えるヨナとも思える。


ていうか、えばは95年代のテーマへのアプローチだし、ファフナーは04年の同じテーマへのアプローチ、比較するためには同じ文脈で語らなきゃ、その時代の差異は伝わらない。
えばと回路じゃテーマに対する内容の違いが判らない。


例えをして適当かわかんないけど、豚肉と牛肉を比較するのに、ポークカレーとステーキを作っちゃ比較できないって。ここはポークカレーとビーフカレーを作るか、ポークソテーとステーキをつくんきゃ、だからファフナーは意図的にえばと似てる、と思ったりした。


あ、ここで言うテーマって、自分なりに読み取ったものだけど共に語ろうとしてるのは、
1 ディスコミュニケーションに対する回答
2 孤独への恐怖
3 死に対する不安
みたいなものだと感じてる。


95年代のえばと04年代のファフナーの違いは、結局観客を引っ張り回したけれど回答を出せなくて投げ出したえば(おめでとう、と気持ち悪い、でお茶を濁したわけだし)に対して、ファフナーはそれなりに一歩踏み込んで、ちゃんと言えたと。


って別に95年代にえばが言えなかったってわけじゃない、言えたろうけど言わなかった。
「シンジくん私は消えるけど消えることじゃない帰ってくるから待っていて」
とか言えたかも知れないけど、問題はそれが受け入れられたかどうかだ。
そういう結末に観客を導いたらどうなっていたか、゜つうか、そういう判ったような所に運ばなくて、適当に投げ出したからこそ人々は食いついたんだと思うけどさ。


そしてファフナーは、えば似とか追いつめられたら、同じ手段は使えない。ま、だからそこ、そこまで似てたら同じ道は歩めないし、必然的に言わせられたって所もあるだろうけど。そもそもそこまで似たら書く必然性もないしそれは初めからはっきり言うつもりだったんだろう。


というより、ファフナーの重要なのはその前の言葉
「今ならわかる。たとえ苦しみに満ちた生でも、ボクは存在を選ぶだろう」
の方だよね。


つまるところ04年代でも、死に対してや孤独の恐怖に対しての回答は出ないけど、死ぬなとは言ったと。


穿った見方として、作中の状態が引きこもりとかニートの暗喩、同化が死の暗喩だったり、引きこもりの暗喩だったり、じゃそれからどう対処すればいいか、物語は回答を提示しなかったけど、生きることは苦しいけど死ぬな、とそれだけは言って幕を引いた、それが04年代の回答の一つだったんだろう。


煙にまいた95年よりはテーマに肉薄したんじゃないかなと評価する。


死んだらどうなるかなんて死ぬまでわかんない。回路は死んだら永遠の孤独が続くカモとか提示したりしてた。
孤独に生きることは死と同等。死は判らないけど、孤独の苦しみはわかる。
友達を作れば孤独から逃げられるわけじゃない。友だちが出来たとしても分かり合えるとか幻想かもしれない。信じられなければ孤独だ。
信じられないどうして信じられるんだろう。


ディスコミュニケーションに関しては、携帯やネットによって人々の人間関係が希薄になったという。
そうじゃないよね、別に今も昔も人間関係は希薄だった、っていうかそんなに変らない。今も昔も孤独を感じている人間はいただろうし。


ただ昔は、コミュニケーション手段がなくて、孤独な人間は徹底的に孤立していて、人と関係を結べるとすれば、直接に合うしかなかった。
まったく誰とも接触しないか、会って言葉を掛けるだけ以上に親密な関係性しか選択がなかった。


そんな状態が、ネットがあれば、まったく孤立する事はなく、希薄ながら他者と言葉によるコミュニケーションは取れるようになった。


それが人を孤立から救ったかというと、そんなことはなくて余計に人恋しく自分の孤立を自覚させられる結果となった。


またまたたとえ話で、適切かわかんないけど、人という囚人は、今までは、まったく誰とも会話の出来ない独房に生きるか、多数の人と居られる雑居房に居るかだった。

それが独房でありながら誰ともしれない人物と会話だけ出来る独房が出来た。それによって救われたかというと益々孤独感が迫る。


そんな環境で問題視されるのは、孤独には耐えられない、だけど、実際に会って打ち解けて安心できる人間関係を作れない、そんな人間が増えてきていて孤独感を感じて閉塞してる人間がたくさん居るってことなんだろう。その証拠としてそういう事と向き合う作品が支持されている、と。


それに対してなんとか答えを出したことは「苦しい生でも存在することを選ぶ」なんだろう。


さすがに死生観に対して、輪廻転生はあるとしても、生者の側が死者の転生を待つっていうのは発想に対して望みが少なすぎる。
どちらかというと生者の側が死者に対して「待っていてくれ、いつかそこに行くから、またその時に会おう」みたいに思うほうが落ち着く。


けどそれはそれで当たり前すぎる話なんで、そう語る必要性も少ない気がするけど。
当たり前って言っちゃ「生きることは苦しい」って事自体も当たり前すぎて安っぽい気もするけどそんなに抵抗感はなかったし。


とりあえず「苦しいけど生きることを選ぶ」って言う存在がいることを知るのは生きる元気が湧くよね。
自分も生きるのは苦しいけど生きるよ。


ちょっと関係ないけど、生きることは痛みみたいな痛みを観点に据えると、ボディピアスしてる人としては、ボディピアスをした他者は共に傷みを知る者として共感を感じたりスルヨ。そのことで一人じゃないってオモウヨ!