レス、そして、ハートフルって一体、という話

# 通りすがり 『通りすがりのものですが、ちょっと気になったので書き込ませていただきます。

ガーゴイル
>無理矢理傷ついた人というのを仕立てて話に登場させて、
>そして解決する、という事をすることがヒューマンハートフルなのか。
>なんかそれ、無理矢理感動させるためにわざと悲劇を作っているんじゃないかと。

そう言われてしまうと、傷ついた人が立ち直るor立ち直らせるという話が一切できなくなってしまうわけで・・・。
傷ついた人を救おうと登場人物が頑張る。そして救われる。そういう話ではダメなのでしょうか?

ハートフルという単語が引っかかっていて、ハートフルとは違う、と考えていらっしゃるのなら仰っていることに納得もいくのですが、

>話自体はヒューマンハートフルなんだけど
と仰っているわけですし、そうならこういう話の手法も認めていいのではないでしょうか?
わざわざ表現方法を狭めさせることを仰る必要はあるのでしょうか?
もっとも、この形が続きすぎるようならちょっと問題ありかなとは思いますが・・・。
現段階で言うべきことではないかと。

ARIA>
>面白いという話じゃないなあととか感じた。

そもそもこれっておもしろさを求める作品でしたっけ?
「未来系ヒーリングコミック」と銘打っているので、綺麗な話をメインに楽しむのが基本スタイルだと思っていたのですが・・・。
そういう視点で見れば、この作品が高評価なのは当然だ、と感じさせるに十分な出来だったと思いました。
他のところでも概ね評価が高いのは、そういう視点からこの作品の評価を考えているからでしょう。
スパイスとしては当然入ってくるでしょうが、面白さをメインに求めるべき作品ではないと思います。』

昨日のコメント覧。
長文ありがとうございます。真剣な意見だと受け止めました。これだけ真面目な意見ならは捨てハンでもいいから名乗ってもらった方が、とか思ったり。
まあそれはよいのですが。


あのことは書いたあとにどうしてなのかなあとかも考察したりで補足したかったのでちょうど良かったです。


まずは簡単な方から。
ARIAの面白さを求める話なのか、に関して。
これの方は単に、説明が足らなかった話で、
徹夜明けで半分寝落ちしながら鑑賞して、綺麗な話だったなあ、でも面白いという話ではなかったなあ(まあ面白味を求めている話じゃないからいいけど)という感じで、ページ左の感想アンテナで読みつけのサイトを回ってみたら、二、三の所で「面白かった」みたいな記述で、をを、今自分の見た物語には面白い所があったのか、寝落ちしていて見逃したかなあ。
という感じでああいう感想が出たわけで(他所では面白いという評だったけど自分には)面白いという話じゃなかったなあ、という事でした。


まあ正直、今のところ、綺麗な話、ウンディーネ達の空気感が気持ちいいだけとすれば、なぜ第二シーズンとして帰ってきたのかというのが判らないところ。まだなにか表現し残したのでみたいな部分を感じられたらなあという気持ちもあったり。


でハートフルコメディーに関して。
どこから入れば判りやすいのか判らない所なんだけど、抵抗感のある表現ということで、たまたま同時期だったということで、涼宮ハルヒの憂鬱の三話目の話、パソコンを強奪するするためにみるくの身体を触らせて、みたいな表現。
ああいうの演出として無責任に笑って消費しちゃってどうなのかみたいな。フィクション上でもみるくという登場人物は精神的に傷ついているのだろうし、と。


で、話の上での必然性みたいなことを考えると、ハルヒの行動はヒドイ上に明らかに犯罪だったりするんだけど、話の必然性の上では、ハルヒというキャラクターはそういう人物なのだ、と、酷いことを平気でするし、目的のために一途だし、人前で平気で着替えるとか、ずれている人間だし、という事を表現するためにはどんなヒドイ表現でも、必然性があれば説得力も持つ物だし、と容認できるんだけど。


じゃ吉永さんちはどうだったのかというと、話の上で重要なことは、ガーさんと怪盗が、盗る物と守る物で立場的に対立し衝突する、という展開なんだけど、果してそこに、親に人体実験させられている不幸な幼女を取り合う、という小道具が果して必要だったのか?という。


そのへんがハートフルコメディーたるゆえんで、必要があったのだ、とすれば、んな事ならハートフルなんていらねえ、ただのコメディーでいいじゃないかと。
ただ単に大事な物として誰かの宝石でも取り合っていればいいのじゃないかと。
そこでハートフルを加味したいのならば、その守るべき宝石は誰かの大事な形見で盗られたら思い出を盗られちゃう、とか、そういう方向でハートフルだって出せるんじゃないのかなあと思ったりするわけで。


ハートフルという表現は素晴しいのだけれど、誰かを意図的に不幸に陥れて、それでハートフルとかセンチメンタルだ、というのはちょっとどうなのかなあと。
誰かを傷つけてハートフルとは何事かと、そういう事態を提供する作り手の心意気にはちっともハートフルなんて無いじゃないかよ、と。


そのへん、立ち直らせるとか救済させるとか、そのところに作り手の意図があったのか、一話のエピソードを見る限りはそんなに傷ついた人は立ち直れていない、というか物語の展開に気を取られて(ガーくんの危機とか千和が誘拐)振り回されて、傷ついた人のフォローとかが出来ていないんじゃないかなと。


で、この段階では、という事については、自分的には、もうこの段階なんですね。


一回目のエピソードで見ていても、何度か作り手から心ない表現だなあと傷ついたんですね。
強盗という物を仕立てて登場人物を傷つける、それに関わった盲導犬が役立たずだったと盲導犬の名誉を傷つける、その解決方法についてはガーくんが犬語を介せるというエピソードで乗り切るけれど本来は犬語を解する存在などいなく本来なら誤解が広がったままになるであるうし、そしてその後は外にも出られないほど傷ついたという事にして不幸を広げる、そして留めは、登場人物が心ないという事であろうけれど、そうして他者の心を傷つけたけれど、首謀者のゲームの社長はその事をなんとも苦しんでいない、と、連鎖的に心ない表現だなあ、という所で、


やっと第一のエピソードを消化したと思ったら、第二エピソードでも親に道具にされた幼女の起用とか、ちょっとハートフルのためとはいえ、あざといというか作り手の心なさと言えばいいのか無邪気さに打ちのめされたなあと。


どこかしら、この作品の作り手のハートフルの尺度と手法は自分とは距離があるなあ、という印象を感じたよ、という所。


まあそんなことを感じたとしても、ことさら表明する必然性など無くて、単純に井戸端話でこのやり方は自分にはやり過ぎだなあと思うとか、感動させるっていっても、わざと不幸を作ってこの不幸を克服して、さあ感動しろみたいなやり方は自分は好きじゃないねえみたいな。


ちょうど今だと、子ギツネヘレンとか、実話なのかも知れないけど、わざわざそういう生き物がいたよという事で飛びついて、さあ感動しろ、とかいわれてもなあ、自分は引くよ、素直に感動なんて出来ないなあ、みたいな。


そのへんはもしやすると、この作者が持つ問題じゃなくて、昨今流行の切ない系のエロゲーの手法の常套手段で当たり前な演出方法なのだろうか?なんて思ったりするけれど、それはそれでそのジャンルに対する挑戦みたいなにっちゃうので、そのへんはなんとも。