吉永さん家のガーゴイル

エセヒューマニズムがッ!


植物と意志疎通が出来たら、みたいな方法論で生き物との関係みたいなことを扱いつつも、そう言うわけで野菜には手を付けなくても肉には手を付けるとか、じゃ動物は良いのカヨ!?とか、
浅はかなレベルで扱っているんだろうなあ、つーかそもそもそういう重いテーマなんて扱う気は元からさらさらなくて、単純に、幼い幼女が辛い目にあって死ぬ展開が欲しかったんだけど、マジでやると重たいので、植物にすり替えて感傷的な物語にしてみたよ、これで心置きなくみんなたくさん泣いてね!


という話なんだろうな。


とか感じつつも、「だって双葉ちゃんがいたら悲しくて泣いちゃって歌歌えないからこれでいいのデス」(意訳)みたいなくだりには、無条件に思考停止して涙腺がゆるくなったことにはゆるくなったよ。


んでもどうなのかな、真実は兄の思いでコントロールされたわけだけど、双葉的にはどう解釈されたんだろう。
はなちゃんは悪い外人のシモベ強化のために食べられて死んでしまいました、口惜しい出来事だったなあ、と思っているのかな。


今更再会して、その上でまた悲しい別れを体験させるのは辛すぎるだろうって判断。
どうなんだろう、死期が迫ったのは他人の理不尽な蹂躙とは関係が無くて、単純に花としての寿命なんだし、人と植物の寿命の違いが生む悲劇なんだろうけど、別れと消滅を正しく受け止めるという意味では双葉と再会する展開の方が意味があったんじゃないかな。


そのへん作り手の綺麗事みたいな浅はかさが現れてるような気がしたり。(もしかしたら原作だともっと尺を取っていて、釈然とする段取りで描かれているのかも知れないけれど)