考えたら負けだ、と言う話

んと、アニメ感想なサイトは、邪気にアニメの感想書いているだけなのがいいと思うの。
アニメ見て、面白かったー、とか今日はいまいちだったーとか、萌えー!とか、それだけ書いてるのが波風立たないし。
下手にバカみたいな事書くと、バカみたいだし、理屈っぽい事書いてもそれはそれで、理屈っぽいことの理屈が理論的じゃないとか、理屈が合ってないとか、変な突っ込みを呼ぶことになったりして、そんなことなら書かない方がハッピーだよなーとか、んでも、バカだから書いちゃうけどさ。


事のキッカケはやっぱり、コヨーテの事になっちゃうのかもしんない。コヨーテの作品を読み違ったというか、受け止めたかを間違えていたというか。
そのままだったらそれはそれで、そのまんまだったかなと思うんだけど、それをキッカケとして、引き継いで、貧乏姉妹物語とか、ちょこシスとか、その辺の作品が、そういう捉え方と関連していて、どうなのかなあと思ったという。


要するに、作品が表現しようとしている指向とそれを理解していないと、ちょっとどうよ?というような引っかかりが生じてしまう、みたいな。


具体的には、自分、貧乏見て、姉持ち姉が、腕に委員長という腕章している、という段階で、ああこの話、まともに見たらダメだ、とか直感して、思考停止して眺めたから、なんとも思わなかったけど、その辺、汲み取らなくてまともに見たらかなり不快な展開なんじゃないのかなと思ったわけ。
どう見ても、金持ちがきまぐれで、貧乏人と安売り商品を奪い合ってる状態としか思えないし、その後の展開も、譲った肉はベットのエサだったり、譲った分お金は払ったのかもわかんないし、その上、なにをやりたかった話なのかワケワカンナイし。
とりあえず、この話は記号で展開を自動的に転がしていった結果なんだろうと思ったりして、まともの受取っちゃダメだと感じたりして、そういう状態を上手く言い表すとなんなのかなあ、と考えたら、表題に上げた「この話は考えたら負けだ、と言う話なんだろう」と思ったと。


同様に、ちょこシスなんかもそう、突然妹が出来たらという願望を実現させるために、サンタが妹を届けに来たのです、とか言うのも考えたら負けだ、と。
それはそれとしていいとしても、それ以降、その事に疑問を抱かない主人公の態度とか、服を買いにショッピングに連れ出す男の態度とか、そういうの全部含めて、まともに考えちゃいけないし、要するに「考えたら負けだ」と。


とか言う認識でもう一度コヨーテに帰ってきたりすると、記号的に話を作っているんだなあというか、やっばり考えたら負け系の物語なのかなあとか思ったり。
つか自分的には、二話の印象は、酒場の立ち回りがそんなに面白くなかったり、話の上での必然性が感じなかったりで、その後少女がミスターに楽しかったから、みたいなことを言い出すのが唐突で、だったら自分には無駄に見えた立ち回りの時間を削ってそのセリフが生きるための演出をすればいいのに、とか思っただけなんだけど、
他所の感想や受け止め方を読んだりすると(つーか実際には一箇所なのかも知れないけど)ミスターが帰ってきてフランカがいきなり平手打ちって言うのもそういえばなんだかなあと(長い間家を空けていた男が帰ってきたら待っていた女は平手打ちするのが記号!)階段に縦穴が開いたらワイヤーで降りる(フランカがしっかり者だという表現)かと思えば、爆風で飛ばされたら落ちそうになる(女は常に落ちそうになって、男はそれを助けてぶら下がって頑張るのが記号!)


とかとか、そう言うのを受取る場合観客に求められるのは「この作品は考えたら負けだ」という事なのだ、と。


換言すれば「考えたら負けだ」というのは、この物語は穴だらけだけど、気にしてはいけない、と言うことだと。


ていうかどうなんだろう。記号で組み立てるのが趣旨といっても、だからといって、説得力とか整合性が無くていい、ということにはならないよね。記号で組み立てて、観客には一番気持ちの良い表現にするという目的でもそこで選択された表現に整合性が無くてもいいわけじゃないし、その辺整合性が取れなかったら整合性を取れるように話の中で屁理屈でもいいから説得力が出るように工夫するとか。


とかとか、とはいえ、上で上げた一連の作品の選択した手段と効果を考えると、まあいいかー、こういうのは考えたら負け系の物語なんだ、とか思って受け止めた方が観客としては幸福かもしれないしねえ、とか思ったり。


まあ下手なあら探しするような見方で物語を見ても面白くないし、考えたら負け系作品という受取り方で物語を捕らえるって言うのもありなのかなと思ったという話。