「ぼくらの」

ぼくらの、は感想が書きにくい。


ていうか書くなら書くで、気合い入れてきちんと書かないと誤解とか、色々生じそうで、片手間でサラリと流して書けるシロモノじゃなくてなかなか書きにくいと。


先週のざぶんと君な話なんですが、原作を読んでいる当時はとくになんとも考えなかったけれど、なるほど座布団一つというのは精神的にも具体的にも彼には今は自分の居場所がないという意味の暗喩だったんだなあと。


で内容の方は、そもそもがこの手のテーマで描いたら一番に考えそうな、身近な感じで、当たり前の取り上げ方で、一番説得力を生じそうな内容なんだけど、


この先の色々なことがあった上で思い返してみると(いろいろ起こるんですよってばよ!)、当たり前そうなんだけけど、一番危険な発想なのかもしれないということだったりするんですね。


要するに、家族のためなら死ねるとか、自分は死んでもいいから家族を守りたいとか、戦争が起こる原因の根元的な理由の一つなのかもしれないわけで、正当なようなのだけれど、それを正当としてしまったら、戦争はそれならば許されるのかというか……。


そういう考え方は、同時に相手も思っているわけで、自分が負けたら大変なことになる、だから負けるわけには行かない、とお互いに思っていて、家族のためなら死ねるみたいな思想はも、要するに自分の家族を守るためなら相手を殺しても良いと考えていると同じ事で、それも互いにそう思って殺し合っていると。


まあ局所的に言えば、自分が負けたら家族は大変なことになるわけだけど、対極的に見たら、国際社会上で、敗戦国だからと言って虐殺をしていいわけがなくて、そんなことが行なわれれば、他国が許さないのだから、敗戦がホロコーストに結びつくわけじゃない。


でも戦争当時は当事者はそう思って必死で戦っている、誰がそう言うのか、それは味方のプロパガンダだったりして、戦争で一番疑わなくてはいけないのは敵ではなくて身内だったりするんじゃないのかと。


物語の中では、コエムシとココペリの言うことを本当に真に受けちゃったりしているけれど、戦ったら死ぬのは事実だけれど、本当に殺しているのは誰なのか?とか、戦って負けたら地球は死ぬみたいなことを言っているけれど本当なのか、誰も確かめてはいない。
だだそう思って恐怖の上で戦わされているわけなんだけど、誰も疑問に思わない。


現実に目を向ければ、イラク戦争とか、イラクは怖ろしい、ほおっておいたら大変なことになるから対策しなければならない、という理由でアメリカが出兵しているわけだけれど、誰もアメリカの主張を疑わない、本当にイラクは危険なのかとか、誰が言っているのかとか、疑問を持ては色々疑わしいんだけれど、鵜呑みにして世の中は動いていて、家族のために、と相手を殺すことを正当化して、人殺しは続けられているのだ。


とか、座布団の話は、正義の良い話に見えて、裏を考えると一番危うくて危険な思想に近いんじゃないのかと思ったりする。


打って変わって今回は、母親は売春婦で、死ぬ前に母を知りたくて売春をしようとしたよ、みたいな話。
私にはなんとも言えませんテーマでした。

森田監督はブログとかしない方がいい、つうか、岸監督もそうなんだけど、クリエイターは、観客とは距離を置いて感想の相互状態などは避けて、ただ上から自分の作品を降ろすという態度を貫く方が健全だ。


それこそ、ぼくらの、の作品は、森田監督の作品であって、観客の声を聞いていたら、森田監督の作品じゃなく、(観客)ぼくらの作品になってしまう。