ぽてまよ

ぽてまよなんであるが、それがまたなかなかに毎週楽しく見ている。


なかなか注目されないんであると思うんだけど、この作品、どうにも紋切り型であるんだけどそれでもちゃんと家族が描かれている。


主人公の父はいつも甚平でお調子者の謎の研究者と、まあ本気では取り組んでいないのだろうけれど、登場人物の居場所として家族という土台にも作り手の意識は乗っていることがわかる。


その他には、ぐちゅ子の保護者役の子にも、メイド服姿の声の高い変人母、というか、老女になりかけに見えるんだけど、母がいるという視点を持っていたり、金持ちの子には、あくたがわしょう作家の元芸能人母がいて、そのせいで豪遊状態とか、脇役のホモ男にさえ、バッキン口一家という、ぞんざいな扱いだけれど家族がいるという視野が作り手にはあるという。


その視点の有無が今だとグレンラガンに代表されたりするわけだけれど、有るか無いかによって、作り手の登場人物に対する深度が伺える。


実際に自分の友人に当てはめてみると良い。
単純に学校という制度の中でクラスメートになった他人、同じ教室という空間においては世間話をする程度の友人、学校を離れてなお付き合う友人、相手の家に訪問して相手の親の顔を知っている友人。


客観的に見ても、親を知っているという事が、観客としてみていても登場人物に対する心境的な親密度に影響を与えるのである。


と考えると、らき☆すたでも、親の顔、家族を知っているキャラクターと、親の顔を知らないキャラクターに、親近感の違いが生じてくるのである。


その辺知ってか知らずか、御形屋はるか氏は上手いこと利用している。
というか、絶対に理解しているであろうと思う。


御形屋氏のもう一つの顔として、エロ漫画家という仕事があるんだけど、エロマンガ、とかく低く見られがちな仕事であるけれど、確かにただ性描写だけの即物的な表現という作品も存在するけれど、一方で、視覚的なエロスだけではなく、心情から来るエロスを扱うという手段もあるのである。


例えば、兄と妹、姉と弟、母と息子、父と娘、禁断の恋と言った物語。
近親相姦という背徳な行為だったりするのだけれど、それを更に自覚させるには、兄妹、姉弟間では親の視線、母息子間では父の視線、父娘間では母の視線、が必要となってくる。
親不在の姉弟愛ではブレーキを掛ける存在がないしね。


という事を成立させるには、書き手として、表現上家族という物への視点が発生してくる。


その辺、御形屋はるか氏の視点には、兼業エロマンガとして、家族に対する視点という物が発生しやすいのじゃないかと思う。


四コマ漫画作家として、一般誌だけで書いている作家の中には、家族の存在という物が逆に物語を書きにくくしている不純物と捕らえているように見えるケースもあるし。


そういう意味で結構家族を正面から扱っているぼてまよという作品に、他の作品以上に面白味を感じているのであった。


実際御形屋氏のエロ漫画の仕事には、身体の線が柔らかくて良い以外にも、人間関係から生じる、感情を含めた想いから来る愛情を扱った作品もあって好感を持っているのですし。