グレンラガン

黙ってみているんだけど、これが全然燃えないんである、どうしたことかと。


演出が悪いとか、作り方がどうこうとか、いろいろあるのかもしれないんだけど、この作品、根底にカミナの口上みたいな形式をかなり意図的に取り入れていると思う。


「無理がダメなら押し通せ、それでもダメになら突き破れ、それがお前の(略)」みたいな、うまく書けないんだけど、用するに口上にょって人を動かしたり作品を盛り上げたり。
これが全然自分にはダメなんである。
正直、口先だけの口車であって、そんな言葉の連呼でこっちの心は動かないんだアルヨ、と。


そういう演出の方法を意図的にこの作品は選択しているわけで、それが原因でもう自分にはちょっともエモーションは生じないんである。


このところ、ツインズや色々と死亡フラグを立てつつ星になっていたりするんだけど、やっぱり見ている自分はちっとも心が動かないんであります。


男は拳で語り合えみたいな泥臭いことも言っているけれど、実際拳が出たところと言えば、シモンが迷っているときにカミナが「歯食いしばれ」って飛んできたときと、責任を取ってロシウが自決しようとした時にシモンがぶん殴りに来たぐらいで、それ以外の場面で、分かり合うために殴り合っていたりするわけじゃない。


一体いつの時にシモンはみんなの信頼を得るような行動をしたというのか、いつの間にかシモンにはカリスマが付いていることになっているし。


来週は、みんなはダチ公だ、みたいなことを言うことになるようなんだけど、一体いつダチ公と呼び合う仲になったのか。
なんとも耳あたりの良い言葉なんだけど、全然実体が伴わないんであることよ。


と感じている中にあって、クレイモアの仲間意識の強固さには脱毛する。
実際クレイモアの中で、仲間意識を高め合うエピソードなど皆無なんだけど、集まった段階で、ヤンキーレディース構造が必然的に彼女らが同族意識で固い絆と信頼で結びあっているかのような錯覚を生じさせている。


そこには、ヤクザとかヤンキーが持つ擬似的な家族関係が発生していて、それだけで既に絆と言う物を読み取ってしまうという構造があるんじゃ無いのかと感じてる。


そう言う点でグレンラガンを見返すと、シモンやらグレン団の中に家族構造など微塵も読みとれないのである。
類似品みたいなグランゾードとかワタルとかその辺でさえ旅する仲間の中で疑似家族という関係性を意識していてそういう視点があるからこそ物語に質量が発生していたのであって、グレンラガンはひとりひとりが浮き草状態で、ドラマとかあったもんじゃないんだよねえ、波風が立ったらあっさり霧散してしまう状態で面白味なんてとても生じないのであった、ということなんだろうと。