GUNSLINGER GIRL -IL TEATRINO-  GUNSLINGER GIRL

最終回です。
淡々と始まって淡々と終わりましたね。


この話はトリエラとピノッキオの話だったのかな。
エッタなんかほとんどでなかったし。


それはそれとして、そう言う物だと思えば、面白い物語でした。


とはいえ、私的には、やっぱり見ていて居心地の悪い作品なのでした。


いや嫌いじゃなくてむしろ好きなんだけど、見ていてあまり気持ちの良い物語じゃないと言うか、落ち着かないというか。


元々の設定の不健全さ、はあるのです、そして気にはなっているのです。


でもそれとは別に、この作品には他にはない決定的な、気持ちの悪さのような物が漂っている気がしてしょうがないのです。


一つには、私には義体少女達には未来がない、と受け止めて居るんですね。


設定的にとか、一般的な解釈は感知しません。


見ていて、ああこの子達は、成長することはなくて、大人になる日も来なくて、まして、結婚するとか、子供を産むと言うことは絶対にない子供たちなんだろうなあ、と見ています。


完成された技術じゃなくて、未完成の開発途上の非合法な処置で、彼女たちは実験動物と同様な物で、実験のため、本来なら死んで生きられなかった生命を一時的に生かしているだけで、動いて存在はしているのだけど、既に死んだと同様な存在、いずれは、五年もすれば拒絶反応とか、無理が出て死んでしまう存在なのだろうなあ、と思ってみています。


そう言うわけで、この物語自体がどこにも未来がなくて、閉塞的で、近いうちに破綻する物語だ、というように見ているのですが、その事が、凄く居心地が悪いのです。


と考えていくと、要するに義体少女の未来というのが、今現在の我々の近代的生活のメタファーなんじゃないかと思うんですね。


今の日本人の文化的生活、暑い思いも寒い思いもせずに、空腹に困ることもないぬるま湯みたいな快適な生活、富んだ生活を約束されつつ、娯楽など享楽的な事を大量に享受する生活。


そんなの、誰が考えても永遠に続くはずがない、我々一世代の間はまだ存続するかもしれないので、我々にとっては一生続く幸福なのかもしれないけれど、子供を産んでその子供も子供を産んでとか、百年後二百年後も同じように快適な生活を維持できているとは思えない。


いつ何時、世紀末伝説な世界が来てもおかしくないと思う。


そう思っているので、この作品の義体少女達の生存と生命と未来のない絶望感というものが、端的に今の現代人の(理性的に今の気持の良い世界が続かないと思っている人間)気分と同調しているのじゃないのかな?と思うのでした。


人殺しをしないといけなくて、常に殺し合ってるイタリア人の焦燥感も、裕福な状況が続かないと判っている日本人の焦燥感と同調するところがあるのじゃないのかな?などと思ったのでした。