コヨーテ ラグタイムショー

べじたん 『「心理の掘り下げ」「感情の変化」という定型句は批評ごっこをする際の便利ワードですが、
正直いって現在のアニメファンはそういうのすでに求めていないのでは?
少なくともこの作品ではハナからやろうとしていないように見受けられます。
masproさんの批評と同様に、記号で説明できるところは記号を当てはめて流す。それでよし、と。』

昨日のエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/maspro/20060711/1152596496での話。


昨今の観客の話に求める演出の価値観からの違いみたいな事になるのかな。


こういう事は、絢爛舞踏祭のあたりから如実になって来ているかなとか感じていたわけだけど、まあまたここでそうした違いを感じちゃったと言うことなのかな、と。


つても、現在のアニメファンはそう言うのを求めていないのならば、「ミスターは三年間海賊をやめて自分のためにしてくれて嬉しかった」みたいな人情話を突如持ち出して来るのはどうなのかな。唐突に言葉という口先だけで、軽々しく感情をた゜゛されても伝わってこないというか。
まあその辺も、実体や体験の伴わない、観念的に、自分はこう感じている、という提示だけで、それを記号として受け止めて、情動を受け止めたことにするという楽しみ方なのかな。


自分的にはそういうなまじ半端な感情表現をするのは良しと思わなくて、やるのなら実感として感情を動かす演出も伴って欲しいし、伴わないならば、半端な感情表現など導入しないで欲しい、と思う。


あのエピソードだって、別段、女の子がミスターに対して感謝や愛情を抱いていると言ったような表現など使わなくても成立するだろう。
単純に「自分は財宝のために大事にされていたんだろう、放しなさいよ」
「そんなんじゃねえ!」
みたいな軽いやり取りでも良かったし。つーか表現として踏み込まない方が観客として語られていない時間が想像できてそれはそれで適切なような気もしたり。


まあ求めている物が違っていて、説得力のある表現など無くても登場人物が「あたしは三年間よくしてくれてあなたのことが好きだよー(棒読み)」と語れば、それでそういう物だと受け止めて物語を楽しむという(もしかしてそれだけで感動しちゃってたり?)のもありだとは思うけど、それはそれで物語の衰退というか死だと思ったり、楽しみ方としても作り方としてもレベル低い、という気もするけど、まあそれはそれでそういう作品があっても、別にふーん、だし、悲観せずとも上手い表現をする作品もあるわけだし、ソルティーの最終回とか非常に良かったし、評価されていたりするし、なんともかんとも。