「ぼくらの」

原作信者じゃないんだけど、アニメ版のオリジナル展開はどうなんだろう?とか感じてる。
世間一般の受け止め方はどうかよく判らないんだけど、原作には存在しない?ヤクザの過去とか素性とか、なんだこれは?と。


原作を読んでいる人間からするとなんだこりゃあというか、うーん……。キリエ編からアレンジが掛かり初めてどんどんアニメ版オリジナルになっていくんだけど、キリエ編の変更の出来事の解釈とか、変更に当たっての原作との価値観の違いとかあたりからもう、なんだこりゃあ、というか。


ヤクザが絡んでくると言う段階からなんだかというか、ヤクザを通して、ウシロの過去とかオリジナルでアニメ版の監督の想像とかを見せられたりするところなんか、まったくもってなんだかなあと。


とその辺考えてみると、原作の鬼頭氏の作品って、ほとんどが登場人物の過去みたいなことをあまり見せないと思うんだよね。
こういう考え方の人物が居て、こういう行為をします、と、まあ大抵色々とエグイ行為をするわけだけど、その事について、どうしてそう言うことをするのかは、開示されない。
本当のところは、それぞれの人間には過去があったり、情況があったりして、その結果、色々な行為をするのだろうけれど、その事はあまり問題としていない。


誰かがイジメをしていて、ミミズ飲ますとかするわけだけれど、その事には、本当は原因があって、昔自分が虐められていた裏返しだとか、イジメをする人間にムカツク部分があって、それは昔こんな事があったから、みたいな理由はあるのだろうけれど、鬼頭氏はあまりそう言うことを描かない。


その分、自分がした行為にたいしては、報いがあるように出来ていて悪いことをすれば、悪いことが返ってくる、みたいな。
そういうのって、過去は不問で、現在の行為に対して未来がちゃんと仕返しを受けるみたいな。


それに対してアニメ版の方法論はなんだか、悪いことをするんだけど、うやむやに報いは受けない、そのかわりに、どうしてそうなったかという因果を描いて、報いを酌量してしまうみたいなように見えてしまうところに違和感というか、アニメ監督に対して不信感とか不誠実さを感じてしまうんだよね。


鬼頭氏は出来事に関して、残酷なことなんだけど、冷徹に、グイグイ迫って、なにかの結論を引き出して来るんだけど、アニメの方は、とにかく手ぬるい。適当に原作の残酷さを中途半端になぞるんだけど、適当なところでテレビの限界みたいなことで手を抜くという。
結果なんだか後味の悪い展開だけが残るみたいな。


そう感じたのはやっぱりキリエ編。


原作通り「この世界はろくでもないなくて守る価値が無いんじゃないか」みたいな事を言い出すんだけど、原作のキリエ君は彼なりに、この世界の真価を見極めようとしてチズのクソ教師と対決したり、色々やって戦うことの意味を自分なりに模索してたたけど、アニメ版はどう解消するんだろうと思ったら、母自殺未遂、父帰る、とか問題が自然解消して「ボク戦うよ」みたいな感じで、なんだこりゃ、みたいな。


まあその辺あれこれ言ってもしょうがないんだけど、鬼頭氏のテーマに対する真摯な前向きさに対して、アニメの出来どこに対する意気込みの後ろ向きさ加減が、もう本当にどうしようもないなあと、オリジナル展開に対してはもう別物、こりゃ「ぼくらの」じゃなくて「やくざの」というタイトルの別作品だ、と思ってみた方がいいよなあと。

先週の話なんか、ウシロと養父の話なわけだけど、結局OPのウシロダッシュに至るの背景を話を書いてみたいだけの話じゃないのかと、「ジアースゲーム」とか本筋にはなんの関係も意味もないじゃん、と思ったりもするんだけど、まだアニメ版を諦めていない感想とかで、生みの親の田中さんがウシロに与えたのは、必要度の低いマフラーと銃、養父は子供の時のウシロのかいた父の似顔絵、という対比なんだと。
なるほど諦めていてまともに考える気にもならないんだけど、田中さんの気のきかなさが田中さんダメさを表していて、養父の方がまだマシみたいなことを言いたかったのか、と気が付いたけど、自分では見ていて、手伝えとか巻き込むくせに、自分は忙しくて自分を見てない養父の態度には幻滅したけどなあ。


あんな扱いばかり受けていたら、とりあえず地球を命がけで守る気になんかならないよ。
あと、年中ぶってるけど、どこへでも連れ回すカナちゃんのことはウシロ大好きなんだろうなあと言うことはよく判りました。


にしてもこのアニメ版の話、どういう着地点に行くんだろう。
元ネタのザ・ムーン同様バッドエンドなのかな。
勝って生き残っても、こんなゲームに疑問も持たず勝ち残っちゃう生命体は生き物として失格なので全滅します、とかいう結末なんだろうか?まあどっちにしてもアニメ版の倫理観を考えるとどんな結末でも評価する気持ちは起きないなあ……。